『人間失格』の感想

 後味が最悪と悪名高い太宰治の『人間失格』をようやく読み切った。読書は学生の頃はあまりせず毎日インターネットに精を出していた私だが最近友達に触発され再び本を手に取ることにしてみた。そして最近ようやく電子書籍の良さに気付いたのだ。ツイッターを何時間も眺めている間に何ができたんだろう…と浪費した時間に思いを馳せる経験は毎日ツイッターに触れる人間ならば誰しもあると思うが、私は気付いてしまったのだ。私は活字を読むのが苦手なのではなく、本と比べた際に娯楽として手っ取り早いからインターネットに何時間も没頭していたのだと。しかし電子書籍となれば惰性でスマホを眺めてしまう延長で本がいつの間にか読めてしまうのである。そして、それを可能にしているのはグーグルブックスに収録されている青空文庫の様々なタイトルのおかげだ。アプリと青空文庫の仕様上、文字データのデジタル移行が色々と雑だと思う。改行と書かれたものが編集されていなかったり1行だけのページが平気で出てきたり。しかし日々まとめサイトにもまれてインターネットに身を投じてきたインターネットネイティブならば特に気にするようなものではないだろう。ウェブ版の青空文庫とは異なり、文字サイズや背景色をある程度調整できてしかも無料で有名文学作品が読めるのは嬉しい。グーグルプレイブックスのおすすめはここまでにしておいて肝心の感想に移っていきたい。


 単純に好きか嫌いかという個人的な感想を述べるとするとあまり好みではなかった。でも、人間の性質や行動に伴う責任について考えるにはいい本だ。後味が悪いというか、読み終えた直後の感想としては「なんと形容したらいいのかよくわからない」の一点だ。主人公の葉蔵がかわいそうかと聞かれればまぁそうと思うし、自業自得かと言われてもまぁそうと思う。私が葉蔵に感情移入できなかった理由はいくつかあるが、おそらく最大の理由は作中での女性キャラの扱いに怒りを覚えてあまり同情できなかったことだ。葉蔵は誰にも心を開かず、常に人に怯え、ひたすら道化を演じることに徹してきた男だが、幼少期に付き人に性的虐待を受けていた過去がある。そして大人になった葉蔵は性にだらしなく、女と酒と薬に依存し、27歳という若さにして年寄りのような見た目になってしまった男。葉蔵がこうなった責任はどこにあるのだろうか。生まれ育った環境が悪いのは本人の落ち度ではないにせよ、本人の行いに関してはどこから責任を問うべきなのだろうか。


 葉蔵の罪は「傲り」の一言に尽きる。もちろん、父親に怯え、幼少期に性的な虐待を受けたことはとてつもなく不幸な出来事だし、葉蔵を正しく導く大人がいなかったという事実は本人の生まれた環境が悪く、本人のせいではない。でも成長の過程で少しずつ自分の家族以外の世界を目にする機会が増えるにつき、少しずつ色々な人と交流し、心を開かないなら開かないにせよ「まぁこういうもんか」という慣れが生じるとともに「世界の中心は自分ではない」という学びがあるはずだ。葉蔵は世間を過度に恐れるが故にその認知は屈折に屈折を重ね、一周回って世界の中心は自分ではないという常識に辿り着けていないのだ。この歪んだ感覚のせいで自分の不幸は他人には理解されないと初めから諦めているし、まるで自分だけがこんなに苦しみながら生きているといった自分の不幸を過信し、他人の不幸を理解し解決する能力を持ち合わせていない。まるで世界で自分だけがここまで苦しんでいるという思い上がりこそが葉蔵の罪である。文中で何度か不幸な者は他人の不幸を感じることができるという旨のことを葉蔵は書いていたが、結局彼の不幸を察知する能力とは自分の苦しみを正当化するための手段の一つであり、相手に寄り添っているように見せかけて自分に都合がいいように利用しているだけだ。例を挙げるとしたらツネ子だ。彼はツネ子と心中を図ろうとし生き延びてしまった自分のことを哀れむが、たかが一夜限りの関係を持った女を記憶の中で美化し、死ぬ覚悟もなく自分だけでなく他の人を巻き込んで死のうとするなんて自己陶酔以外の何物でもない。実際、ツネ子の身の上話には一切興味がないと葉蔵は自覚しているし、ツネ子から湧き出る侘しさに心地よさを感じただけでこれはツネ子を愛おしく感じているのではなく、歪んだ自己愛だと私は思う。しかも、「金の無い者どうしの親和」などと言って自分がまるでツネ子と似たような境遇にいるかのような語り口だが葉蔵は紛れもないボンボンで、親の仕送りに頼り切って自分で生きる術を何一つ持っていない世間知らずなのに対しツネ子はカフェで身をすり減らして働き、ろくでなしの夫のために尽くす不憫な人だ。他人の不幸ですら自分の不幸かのようにすり替えて考えてしまう葉蔵の途方もない自己中心的な思考は紛れもなく「悪」だ。他にも堀井に見下されているという事実にたいそうショックを受けた葉蔵だが、お前も堀井のことを絵が下手な軽薄な男だと見下しているだろうとツッコみたくなるし、とにかく自分のことを棚に上げて自分だけが不幸である、自分が特別であるという思い込みに囚われて生きていることが明らかである。


 「過度な自己嫌悪は自己愛に似た性質を持つ」と以前どこかで読んだ言葉に私は当時衝撃を受けた。人の気持ちを鑑みず自分はダメだと自身に一種の暗示をかける様子は、人の気持ちを鑑みず過剰に自分を愛することと何が違うのか。過度な自己嫌悪とは一見他の人に助けを求めているようで、その実自分への評価が自己完結しているので単純な自己愛よりタチが悪い。己の生きる苦しみを耐え忍ぶことを美徳とし、本来感じなくていい苦しみを正当化し続ける選択を繰り返し続けるのはいかがなものか。「人は苦しみを恐れるのでなく、苦しみの無意味さを恐れる」というのも心理学書で読んだ記憶がある。私も人の子なのでそういう考えに陥ってしまう感覚もわかる。今以上に酷い状況になってしまったらどうしようと不安になる気持ちもわかる。しかし、自信の不幸の根本的原因に向き合わなければ我々人間は成長することなく、自分を哀れな存在だと思い込んで傷を舐め自分自身に酔って生きる生物として一生を過ごすことになるだろう。また、自分に価値はないから自分は人一倍頑張らねば生きる資格がないという思い込みと自己陶酔する様子は一見矛盾しているように見えるが、自己肯定感が異様に低く過剰なまでに自己否定を繰り返すのも一種の歪んだ自己愛だと考えると納得がいく。本作品の題名でもある「人間、失格。」という文は異常なまでに自分を追い込み、自分の不幸さが異質であると思い込む葉蔵だから成立する考えで、一読者である私からしたらむしろ醜く足掻き間違えながら生きていく様は非常に人間らしいと思う。人としての最低限の倫理観を見せない主人公は最悪な人かもしれないが、人を人たらしめるものは行いの良さってわけでもないのでやはり私は「失格」という表現には至らないように思う。しかしながら太宰がこれを執筆した当時、人権意識というようなものは皆無だったはずなので「人はだれしも生きる権利がある」のような考えは珍しかったのかもしれない。以上が私の感想だ。



追伸

 ひとつの作品を語る際に他の作品を引き合いに出して語るのは良くないけど、葉蔵の周囲の人間に対する扱いにはどこか『ボージャック・ホースマン』を彷彿をさせるものがある。裕福な家庭に生まれながら子供の頃にとてつもないトラウマを負い、周りの全ての人間を不信に思い、自分に周りから求められる人物を演じることを強要し、己の身勝手に周りの人間を構わず巻き込み、自己陶酔しきった自分の行いを改めようとしないアル中のクズ。ボージャックの中心的なテーマの一つは「こんな人(馬)でも許すことができるだろうか」みたいなことだと思うけど、これは人間失格にも当てはめることができるだろう。


青空文庫の『人間失格』




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